第10章 横尾孝人なんて、その価値もない
南雲玲奈の顔色は、もともと気分の悪さで少し青白かった。
それが今、この光景を目にした瞬間――血の気が一気に引き、真っ白になる。
玲奈はずっと分かっていた。横尾孝人が自分を愛していないことくらい。
けれど今は、まだ婚姻中だ。玲奈の見えないところで何をしようと勝手にすればいい。だが、彼女がいると知っていながら、こんなふうに堂々と抱き合うなんて。
――あまりにも、人を舐めている。
個室の中の誰も、入口に立つ南雲玲奈の存在に気づいていなかった。
だが横尾孝人だけは気づいた。
思いがけず玲奈が戻ってきたのだろう。ほんの一瞬、表情が揺れた。けれど、それも一秒で消える。
彼は中島美奈を押しのける気などさらさらないらしい。むしろ心配そうに問いかけた。
「どうだ。立てるか」
中島美奈は額を押さえ、弱々しく答える。
「大丈夫……」
口ではそう言いながら、頬には酔いの色が浮かび、身体はふらり、ふらりと揺れる。次の瞬間――そのまま孝人の胸へ倒れ込んだ。
横尾孝人は苛立つこともなく、どこか甘やかすように肩を支える。
「酔ってるな。先に送る」
そう言って彼は、美奈のバッグとコートを手に取った。そして場に向け、淡々と告げる。
「今夜の食事会は、ここまでだ」
誰も逆らえるはずがない。
「はい、社長。お疲れさまでした。お気をつけて」
口々に頭を下げる声だけが響く。
横尾孝人は頷き、すぐに中島美奈を支えながら個室を出た。
南雲玲奈は、扉の脇に立ったまま動けない。
二人が通り過ぎようとした、そのとき。
中島美奈がふいに足を止め、いかにも気遣うふりをして囁いた。
「孝人、私、一人で歩けるよ。玲奈を送ってあげて。彼女もお酒飲んでるし……」
聞いていて吐き気がするほどの「理解ある女」ぶり。
横尾孝人は南雲玲奈を薄く一瞥し、温度のない声で言った。
「必要ない。あいつは一杯だけだ。酔わないし、自分で帰れる」
そして、美奈のほうへ視線を戻す。
「それより君だ。そんなに酔って、何かあったら――おじさんとおばさんに顔向けできない」
それだけ言い残し、彼は美奈を抱えるようにして、玲奈の横を通り過ぎた。
……その瞬間、南雲玲奈は見てしまった。
孝人の胸に収まったまま、中島美奈がふっと目を上げる。唇の端には、軽蔑と優越感が混じった笑み――まるで勝利宣言みたいな笑い。
あれのどこが酔っているのだろう。
南雲玲奈は拳を握りしめた。それでも追いすがらない。止めたところで無駄だ。
横尾孝人は言ったのだ。『自分で帰れる』と。
――彼はいつだって、そうだった。
以前、会社の案件で取引先に酒を無理やり飲まされ、迎えを頼んだことがある。あのときも彼は来なかった。運転手を寄越しただけ。
忙しいから。
その一言で、玲奈の不安も安全も、軽く切り捨てた。
彼の中で、自分の安全は重要事項じゃない。仕事以下。だから中島美奈みたいな女が、平気で挑発してくる。
南雲玲奈は胸の痛みを無理やり押し殺し、何も感じないふりをした。
その夜、食事会が終わると、皆は二次会へ行こうと盛り上がった。
けれど玲奈は断った。そんな気力は残っていない。礼だけ言って外に出る。
レストランの外は、いつの間にか土砂降りだった。
飲むかもしれないと思って車は出していない。配車アプリは注文が爆発していて、待ち人数は100人超え。
建物の前で待つあいだ、冬の夜風が容赦なく吹き込み、玲奈はぶるりと震えた。胃もきりきりと痙攣する。出てくる直前、トイレで吐いたばかりで、全身が重い。
そこへ――見慣れたロールス・ロイスが目の前を走り抜けた。
タイヤが跳ね上げた水しぶきが、玲奈の服にぱしゃりとかかる。
後部座席。整った横顔の横尾孝人。その肩に寄り添い、親しげに身を預ける中島美奈。
南雲玲奈は鼻の奥がつんと痛くなり、視界が滲んだ。
もう立っていられない。玲奈はしゃがみ込み、震える指で連絡先を探す。
――かけられる相手は、志村千夏しかいなかった。
「千夏……迎えに来てくれない……?」
嗚咽混じりの声に、千夏はすぐさま切り返した。
「玲奈、どうしたの!? 今どこ!? すぐ行く!」
場所を伝えると、十数分後。赤いスポーツカーが勢いよくレストラン前に滑り込んで停まった。
千夏が車を降り、周囲を見回す。すぐに玲奈を見つけ、顔色を変えて駆け寄った。
柱の陰で小さく縮こまり、目を真っ赤にした、濡れて薄い背中。
千夏は玲奈の手を掴む。
「玲奈、大丈夫!? 手、冷たすぎ……服も濡れてる。誰にやられたの? 言って。私がぶっ飛ばす」
南雲玲奈は首を横に振った。何も言いたくない。
ただ千夏にしがみつく。そうしていないと、崩れ落ちてしまいそうだった。
千夏はそれ以上追及せず、背中を優しく叩く。
「いい、もういい。何があっても、玲奈には私がいる。帰ろ? このままじゃ風邪ひく」
南雲玲奈は黙って頷いた。
千夏の家は近かった。部屋に入るなり、千夏が矢継ぎ早に言う。
「早く熱いシャワー浴びて。髪もちゃんと乾かして。バスローブはある。着替え、探してくるから」
玲奈は頷き、そのまま言われる通りに動いた。
風呂から上がると、千夏が生姜湯を用意して待っていた。
「これ飲んで。砂糖多めにしておいた。辛くないよ」
南雲玲奈は生姜湯を飲み干す。甘さが胸の苦さを少しだけ薄めてくれて、ようやく息ができた。
千夏は玲奈が碗を置くのを見届けてから、静かに訊ねる。
「……で。何があったの?」
玲奈は本当は話したくなかった。けれど、このままでは千夏を心配させ続けるだけだ。千夏も、納得するまで聞くだろう。
南雲玲奈はできるだけ簡潔に、起きたことだけを話した。細部は省いた。それでも千夏は賢い。すぐに状況を飲み込み、顔を歪める。
そして――机を叩いて立ち上がった。
「横尾孝人、何様!? 足が動かなかったとき、誰が付きっきりで支えたと思ってんの!? 玲奈がいなかったら、今だってまともに立てないくせに!」
怒りが止まらない。
「それなのに平気で元カノといちゃついて、婚姻中の妻を踏みにじるとか……最低。気持ち悪い。見てられない!」
吐き出すだけ吐き出してから、千夏は座り直し、玲奈を抱きしめる。声は一気に柔らかくなった。
「玲奈……最近ずっと辛かったんでしょ。なんで早く言わなかったの」
南雲玲奈は、親友の体温に触れて、凍っていた心がゆっくりほどけていくのを感じた。
小さく首を振り、掠れた声で答える。
「言うほどのことじゃなかった……でも、横尾グループの開発部を離れられてよかった。これからは、自分の好きな仕事に集中できる」
そして、まっすぐ千夏を見る。
「千夏……私、横尾孝人と離婚する。前に言ってた通りだよ。男のために自分のキャリアを捨てるなんて、価値がなかった。今、痛いほど分かった。私……間違ってた」
